18562【深沢委員】 私は15年ぶりぐらいかな、厚生委員会所属であります。初当選の頃はずっと厚生委員会で続けておりました。その前身が、ちょっと国会議員さんのスタッフをやっているときに。国会は社会労働委員会なのです。当時、自由民主党政権でしたが、非常に福祉、社会保障を頑として守る──当時の園田厚生大臣もそうなのですが──先生方というかで来て、そんな中でやってきたものですから、当選してすぐ厚生委員会に入ったと、こういう経過でありまして、市長も同じ自由民主党出身であらせられて、そういった立場からも含めて、今回はいろいろ原点的なお話でお聞きをしてまいりたいと。この次の議案もそうなのですが。
そこで、この高齢者総合センターは平成5年に竣工している。私が当選した昭和58年は、福祉会館だったのです。当時は、単に今で言う高齢者福祉だけでなくて、教養。講座は今も社会活動であると思いますが、みんなが寄り合って、言わばコミュニティセンターみたいな機能とか、社会教育の機能みたいなものが。私がちょっと調べた限りでは、山本茂夫さんがこれを昭和41年に計画をする際にかなり中心になってやられたということで、私もよく知っている方なので、なるほどなと。それで、浴室といっても、男女別の銭湯みたいな。つまり、コミュニティづくりみたいな。ローマ帝国なんかもそういうものが政権の基盤にあったみたいだけど、そこから取ったかどうか分かりませんが、そういう場所がいわゆる国の高齢者施策推進の中で高齢者総合センターという形に土屋市政のときに変わっていったと。こういう経過と認識しておりますが、もし間違っていたら、どなたか御指摘をいただければと思います。これが質問の1点目であります。
もう一つは、この高齢者総合センターの場所は、駅だったわけです。今のパークタウンのところが、御案内のとおり、野球場だったわけですから。終戦後、言わば目標を失った国民が、どうしていいかと。そのときに会社が武蔵野で逓信省総裁だった松前重義さんが社長になって、近衛秀麿さんとかが発起人で武蔵野文化都市建設という会社をつくって、やはりこれはスポーツだと。目標を失った国民に希望を与えるというか、そのためにはやはりスポーツがいいということで、それでその代表格として野球場が来て。ただ、これは昭和26年に始まって、その同年中に砂ぼこりと交通の不便でなくなった。そういう場所なわけです。つまり、そういう歴史的背景がある場所が、その後、武蔵野の福祉会館として、みんなが集まれる場所であり、当時でいう老人、今でいう高齢者福祉の拠点ともなっていったということで、市長におかれては、行政の責任者であると同時に、市民の代表という。ちなみに、この昭和41年はおじい様の文太郎さんがそのときは議会に議席、翌年に基二さんがなられているということもありますので、市長に、未来に向けての武蔵野市民に向けた、ここを今までどおり、しっかり高齢者福祉の拠点にしていくという、その御決意のほどをお聞かせいただければということであります。
その2点、ちょっと大所の立場から聞かせていただきます。