令和5年度予算特別委員会

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深沢達也
深沢達也
立憲民主ネット現職

映像ID: 2437

10784【深沢委員】  その質問の前提として申し上げたのが、定年がまたさらに60から65歳に延びていく。したがってシルバー人材センターの平均年齢も、おのずと上がってくる。したがって、最初のいろいろなスキルの習得とか、そういうところの問題も出てくると、るる申し上げたわけであります。そういった立場から今後課題は多いと思いますが、そこのところは市としてもよろしく御対応いただきたいというのが1点であります。
 それから、もう1点は定年制という問題ですが、これは御参考まで、意見構成の上でどうしても関わるので申し上げますと、歴史的な推移を見ると、日本に定年というのは、お役人さんには奈良時代から養老律令であった。70歳と。ただ一般の民間には、それが適用されるものはあったのだろうけれども、あくまでも行政だったと。しかも一部の貴族層だった。
 江戸時代の定年というのを調べると、これはなかったわけです。国民の85%が農民でしたから、ある程度の年齢になって、家族が、息子が、娘がやれるようになったら、今度は自分はいわゆる名主さんや庄屋さんのところと一緒に、村のガバメントに入っていくから、半ば公人だったと。したがって、いわゆる誰が産まれたとか誰が亡くなったとかというような、書記役みたいなことをやったり、様々な村の仕事をしていたということで、事実上、今で言う定年というものはなかったということが、資料、文献を読むと出てまいります。
 一方、現代も含めたヨーロッパやアメリカ、世界を見ると、例えばEUなんかは、3大差別ということらしいのですが、人種と性別と、それから年齢。年齢も差別に入るということで、そういう指令を出したそうです。加盟国のうち幾つかは、70歳とか65歳とか、そういった定年があるところがあるようですが、フランスなんかはそういうのはないということで、それぞれらしいのですけれども、簡単に言うと、がっちり定年制ということでやっているのは、私の知るところはやはり日本。中国や韓国も定年制はあるようですから、そこもさらによく勉強したいと思っています。
 ということで、なぜそれができたかの起源は、一般質問のときに申し上げたように、明治時代のいわゆる砲兵工廠の55歳という規定が、そのまま定年制につながったということを申し上げたところです。したがって、これも昨日の話と一緒で、成人というのが、一時期、令和4年まで二十歳になっていたわけですが、それは実は、明治9年のいわゆる軍役、兵役のための年齢で二十歳であったのを、民法で二十歳にしたということでした。
 つまり簡単に言うと、全部維新の時代に遡るわけです。今、我々は固定観念になっているようだけれども、歴史をひもといていくと、それから世界を見渡すと、みんなそれぞれ違うのは当たり前だけど、日本という国のあれを見てもそういう経過があるということを念頭に入れながら、これからの単に高齢化社会ということだけではなくて、ずっと仕事をしていくということが、少なくとも江戸時代は当たり前だったというふうに文献にはある。
 関連する全部の文献を読んでいるわけではないですけれども、そういったこともあるので、やはり65歳で定年を迎えて、これから事実上シルバーを希望する人がやっていく中で、言ってみれば現役と同じような立場で地域に貢献していく、そういう在り方というのをぜひ目指したいという立場から、改めてその将来展望についてお聞きする次第です。これが2番目。
 それからもう一つは、この際全部聞いてしまいます。これは最後の質問ですけれども、移転についても経過を確認いたしました。簡単に言うと、これは公益社団法人ですから、そこの場で自主決定をして、それが市に通達されて、市としてはそれを受けて、今までのトイレの問題だけでなくて、老朽化の問題やバリアフリーの問題があった中で、しからばその要望を受けて、今の西久保の場所にちょうど場が出てきたので移転しましょうと、こういう流れで現在の地が決まったというふうに答弁から理解しましたが、それでよろしいでしょうか。

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