23853【深沢監査委員】 体系立ててお話できるか、頑張ってみます。
まず取っかかりで、代表監査との食い違いや議論がどうなっているか。これは、大体さっき申し上げたように、毎週半分ぐらい監査室におりますので、折々のテーマなり、そのときの課題を通じて議論をしょっちゅうやっていまして、結果、今回の意見書作成に当たっては、8月にもう上がっていました。最後、一緒に詰めた上で印刷に持っていったわけですが、7月の末に、私の記録だと7月29日に、私はこの5年度の決算審査を通じて感じたことというか、私の議選監査委員としての意見を整理した1枚紙をつくりまして、代表監査委員に、私もこの意見書をつくる際に、こういう考え方でぜひ盛り込みを、ともに議論の上、やってほしいという要望をいたしまして、その後、逐次議論をして、とりわけ今回のところでいえば、7番、52ページ、先ほど来、朝からずっと議論に出ている知見の承継と基礎的知識の定着、これはもう代表監査委員も私も全く同じ意見です。知見の承継というところであります。
実は私は、先ほど来も出ていたと思いますが、勘という──つまり、私が初めて当選したのは昭和58年ですから、その当時は戦争が終わって、言わば何もないところからとは言い過ぎですが、中島があったことで空爆を受けて、その後、武蔵野をつくり上げてきたと。しかも、下水の進捗は日本でもトップクラスで一番早くやった、その時代の人がまだいたわけです。いや、俺はもう昔はスコップを持って下水の仕事です、自ら作っていったのです、そういう方々がいたのと、それから、事務方のほうでは、これは議会の議事録もそうなのですが、昭和40年ぐらいまで、本会議場のところにありますが、鉛筆なのです。見てみれば分かります。だから、電算が入ったのが、私が初当選した昭和58年の直後だったのです。電算導入でいろいろな議論があって、もちろん入れたわけですけど。
ですから、自分らでこのまちをつくり上げてきたという自負があったのだ。だから、非常にこだわりが強かった。とりわけ事務方においては、当時文書課とか、法務に携わる課が、正誤表なんというのはとんでもないと、間違いをやってはいけないのだという気風がみなぎっていたわけであります。今は時代の変化で電算があり、電算といいますか、コンピューター、まさに時代がDXだと。だから、機械に頼ってはいけないというふうにいつも私は議論で、監査としてはみんな、代表監査も同じ意見なのですけど。だから、仕事に対する執着というのが大変なものだったと。体ごとイコール仕事みたいな、今もそういう人はいないわけではない、そういうものを継いでいる人はいると私は思っているのだけど、そういう時代だったのです。職業観というのは時代によっても違うし、人それぞれだから、別に強制すべきものではないし。ただ時代がそうだった。
ですから、ミスにしても認識が極めて厳しかったということがあって、鉛筆書きの時代ですから、間違いを何回もやって、やっているうちに、一つの秘伝ができてくるわけです。例えば、最近まで言われていたのは、1桁目のところを全部見ていって、足し算して、それが違っていればもうあれだというような秘伝とか、そういうのが、変な話、仕事でない席です、そういうところでしょっちゅうやっているわけです。私には聞こえないようにやっていたけど、その秘伝の承継があった。私はそれを勘というふうに、提出したメモには書いて出しました。それは、こういう公文書ですから、全部総合して知見と。やはり知見ですよね。ここに一番こだわりました、私は。そうしたら、結果、ここに7番で言いたいことはそっくり入ったと。ここは私の今回の最も力説をした部分であります。それでお答えになっているかどうか。
以上です、まずは。