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令和6年第3回定例会

9月5日(木曜日)

令和6年第3回定例会
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13309◯市 長(小美濃安弘君)  難しい質問だなというふうに思います。ただ、歴史的にどういう形で緑の憲章が制定されたのかとか、コミュニティ構想ができたのかというのは、ちょっと私はそのときにはいませんでしたので、コミュニティ構想はたしか昭和46年ということは、私がまだ9歳ぐらいの頃なので、まだ知る由もないわけであります。憲章がその2年後、48年ですから11歳。まだよく分からない頃で、歴史的背景はよく分かりませんが、ただ、そのときにやはり課題というか、そういった何らかの背景があり、コミュニティ構想ができ、その2年後に緑の憲章ができたというのは、当時としてはそれなりの意義があったのだろうなというふうに思います。
 ただ、それがあるから、それに引っ張られて、今市民の方々が、住民自治もしくは市民参加をしているのかというと、それは少し違うかなというふうに思います。そういうことを知らずに引っ越してきた方もたくさんいらっしゃいますし、そういうことを知らずに育った市民の方もたくさんいると思います。ただ、そういった土壌があって、風土があって、まちの雰囲気というか、空気感があったというのは、当然あったのだろうなというふうに思いますが。
 例えば市民参加とか住民自治とかと、1つだけ例を申し上げますと、私は平成17年から23年の3月まで浪人生活をしておりましたので、一般市民でおりました。そのときに、ちょうど今も少し問題になっておりますけれども、法政高校跡地問題というのがありまして、法政高校のあった場所が移転して、そこにマンションデベロッパーがすごく高い建物を建てるということがありまして、住民運動が起きました。その住民運動に一市民として参加させていただいて、非常に勉強させていただいた思いがございます。
 そのとき感じたのが、本当に一般の、今までは普通の主婦としてお付き合いをしていた方、また、会えば挨拶ぐらいはする近隣の方々が、自分たちのまちにこんな高い建物が建つのはやはり問題だということで、立ち上がって、運動を始めたのです。これは別にコミュニティ構想があったからではなくて、やはり自分たちのまちは自分たちで守るのだと、そういう意識、住民自治、市民自治の考えから出てきたのだと思っています。私もそう思いました。非常に理不尽な話でした。
 先ほど用途地域の話をしましたが、用途地域の始まりは昭和35年です。もともと法政のあった場所というのは、帝国美術大学、武蔵野美大の前のところは、もともと大学があったのです。なので、大学は実は第一種住専には建てられませんので、もともとそこに大学があったがゆえに、その地域だけは第一種住専から外れていたと、そういう地域でありました。なので高い建物が建てられたのです。周りは全部第一種住専だったのですけれども、そこだけ高い建物が建てられたと。ただ、美大も法政も、第三中学校までエリアだったのですが、15メートルに抑えられていたのです。
 だから15メートルまでは住民として許せるということで、15メートルの地区計画を自分たちでつくってしまったのです。自分たちでつくって、それを市に提出する。すごいことです。ふだんは行政や議会に自分たちの生活やまちづくりを負託しているわけですが、いざ危機が迫ると、立ち上がり、自分たちでまちのルールまでつくってしまうという、この市民参加、市民自治の力に、私は平成7年から市議会をやって、13年から都議会議員もやっていましたけれども、じかに住民の力を見せつけられたという感じがありまして、すごい力だという思いを今でも持っています。
 それが、市に提出したものは結局却下され、市が独自に地区計画をつくったのですが、しかし15メートルのエリアというのは採用していただいたので、今問題になっている、今回建設委員会にも陳情が出るようでございますが、そのマンション計画も、15メートルの範囲で抑えられているわけです。あのときの運動は、少なくとも高さだけは抑えられたということで、住民の力でまちのルールをも変えることができる、そういう思いを持っております。
 ですので、決して従前にあった条例とか従前にあった計画とか構想、こういったものに引っ張られて住民は動いているのではなくて、武蔵野市──武蔵野市と言ってしまうとどうか分かりませんけれども、少なくとも市民の力というのはそういうものを持っている。またそういうことで、様々な武蔵野市の市政が進められてきたのだろうなというふうに感じているところであります。ちょっとお答えになっているか分かりませんが、もしあったらまた再質問してください。